篤姫の生涯8 篤姫の晩年 動画
江戸城無血開城と晩年
天璋院は、東征してくる官軍の「薩州隊長人々」にたいし、「命にかえて徳川家の存続を」と嘆願書を提出している。かつて自分の入輿の世話をした西郷吉之助に望みを託したのであろう。
その西郷に海舟が江戸城開城談判の席で会ったとき、最初に静寛院のことを持ち出している。「一朝不測の変生ぜばその御無事は保障しがたい」という勝舟の言葉には、天璋院のことも含まれていたのであろう。
実は海舟は、この2人を守り抜く決心を一橋家を継いだ茂栄(しげはる)に示していたから、西郷への脅しに過ぎないのだが、談判は成立し、江戸城は無血開城された。
天璋院は、一橋邸から紀州邸、尾張外山屋敷と、江戸から東京に変わった騒乱のなかを転々とし、明治10年(1877年)、やっと千駄ヶ谷(渋谷区)に落ち着いた。
また、この年、慶応4年(1868年)の閏(うるう)4月29日、6歳の田安亀之助に徳川家名の相続を命ずる朝旨(ちょうし)があり、翌月、亀之助は家達(いえさと)と改め駿河(するが)70万石の藩主となった。そしてその若い亀之助の訓育に全精力を注いでいたのが天璋院であった。
明治10年、家達は英国留学に旅立ち、天璋院はひとまず自分の任が終わったと感じたであろう。同13年、箱根・熱海の湯治に出掛けている。19歳に鹿児島を旅立ってから初めての旅行は1か月余の私的なものであった。
同年、留学延期を願い出てエジンバラからロンドンに移転した家達は、天璋院へ英国の品々を贈った。
同15年10月、帰国した立派な家達の姿を見届けた天璋院は、翌年11月20日に息を引き取った。49歳。墓所は、寛永寺、家定の墓に並んで眠っている。
天璋院は、東征してくる官軍の「薩州隊長人々」にたいし、「命にかえて徳川家の存続を」と嘆願書を提出している。かつて自分の入輿の世話をした西郷吉之助に望みを託したのであろう。
その西郷に海舟が江戸城開城談判の席で会ったとき、最初に静寛院のことを持ち出している。「一朝不測の変生ぜばその御無事は保障しがたい」という勝舟の言葉には、天璋院のことも含まれていたのであろう。
実は海舟は、この2人を守り抜く決心を一橋家を継いだ茂栄(しげはる)に示していたから、西郷への脅しに過ぎないのだが、談判は成立し、江戸城は無血開城された。
天璋院は、一橋邸から紀州邸、尾張外山屋敷と、江戸から東京に変わった騒乱のなかを転々とし、明治10年(1877年)、やっと千駄ヶ谷(渋谷区)に落ち着いた。
また、この年、慶応4年(1868年)の閏(うるう)4月29日、6歳の田安亀之助に徳川家名の相続を命ずる朝旨(ちょうし)があり、翌月、亀之助は家達(いえさと)と改め駿河(するが)70万石の藩主となった。そしてその若い亀之助の訓育に全精力を注いでいたのが天璋院であった。
明治10年、家達は英国留学に旅立ち、天璋院はひとまず自分の任が終わったと感じたであろう。同13年、箱根・熱海の湯治に出掛けている。19歳に鹿児島を旅立ってから初めての旅行は1か月余の私的なものであった。
同年、留学延期を願い出てエジンバラからロンドンに移転した家達は、天璋院へ英国の品々を贈った。
同15年10月、帰国した立派な家達の姿を見届けた天璋院は、翌年11月20日に息を引き取った。49歳。墓所は、寛永寺、家定の墓に並んで眠っている。



