篤姫の生涯4 輿入れとペリー開国

政治問題化した輿入れ

ペリーの開国要求にたいし、老中首座阿部正弘は、全国の有力諸侯・諸司に意見を求めるという異例の措置をとった。あくまで攘夷(じょうい)か、それとも通商を認めるか、国論は2つに分かれた。

もはや国論をまとめるには朝廷の権威すなわち勅許(ちょっきょ)を求める以外にない。また、外圧という危機に対応するには、現将軍(家定)では覚束(おぼつか)ない。次期将軍には、外交手腕も含めて、英明な人物が期待された。

水戸徳川斉昭(なりあき)の子である一橋慶喜(よしのぶ)を次期将軍に推す阿部正弘ら一橋派と、将軍家への血筋の濃い紀伊徳川慶福(よしとみ)を推す井伊直弼(なおすけ)ら南紀派が対立した。

こうしたなかで、誰が将軍家定の御台所になるかも政局を動かす重要な要素として、にわかに注目されるようになった。

質実剛健を旨とする徳川斉昭は、もともと大奥に嫌われており、大奥の意見を代表する家定生母の本寿院も、慶福ひいきであった。この一橋派に不利な状況を打開するためには、篤姫が家定に嫁ぎ、本寿院の意向を動かさなければならない。阿部正弘と島津斉彬の意見は一致した。

嘉永7年(1854年)3月3日、幕府は神奈川条約(日米和親条約)を結んだ。この条約に基づき、安政3年(1856年)7月、アメリカのハリス総領事が着任し、通商条約の締結を強く迫った。

これより先の2月、阿部老中から婚礼の許可が達せられ、11月、篤姫は渋谷の下屋敷から江戸城(大奥)へ入った。

渋谷の下屋敷は、海に近い芝の上屋敷が外国からの攻撃にさらされる危険があるため、斉彬が新規に購入したもので、篤姫はじめ女中衆は、安政2年12月に移居していた。




http://www.nhk.or.jp/kagoshima/atsuhime/retsuden01.html






★人気検索語句記事★
織田信長 エピソード
偉人 エピソード
歴史 おもしろ話
面白話
篤姫エピソード
歴史 人物 雑学
篤姫 動画

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 

モジュール管理システム